2009年06月29日

博物学は学問分野としては残っていないが

現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。博物学的研究は、理論的側面に弱いので、学問の世界では一段低く見られている傾向もある。しかし、自然科学の研究対象となる種々の自然物の記載分類は科学の基礎として欠かすことのできない作業であり、この部分が充実していないと研究材料の特定が困難となり、自然科学の諸分野は砂上の楼閣と化してしまう。そのため、博物学的研究の重要性はいまも変わっていない。

博物学的研究とは、野や山に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、牧野富太郎が行った植物研究や、南方熊楠が行った変形菌研究などがその例となる。
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またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている。たとえば昆虫などは、各地の昆虫採集好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「ナチュラリスト」と呼ばれている。

現在でも、製薬会社はプラントハンターたちを世界各国の特に熱帯雨林などの詳しい調査がこれまで行われていなかった地域に派遣して植物の収集に努めている。鉱物の分野でも、毎年数十の新種が新しく発見されている。

天体物理学が主流を占めている今日の天文学の分野でも、小惑星や彗星、新星の発見、分類は、未だ盛んであり、天文学におけるこの種の分野は、博物学の範疇であるとも言える。

2009年06月12日

アナフィラキシー(英: anaphylaxis)とは

アナフィラキシー(英: anaphylaxis)とはヒトや他の哺乳類で認められる急性の全身性かつ深刻なI型過敏症の一つ。この用語はギリシャ語であるανα ana(反抗して)とφύλαξις phylaxis(防御)を語源とする[1]。微量なアレルゲンによって生死に関わるアナフィラキシーを生じることがある。アレルゲンの摂取、皮膚への接触、注射や時に吸入の後にアナフィラキシーは生じることがある

アナフィラキーの症状はIgEと他のアナフィラトキシンが関与し、肥満細胞からのヒスタミンや他のメディエーターの放出させる(脱顆粒)。ヒスタミンは細動脈の血管拡張や肺の細気管支の収縮、気管支痙攣(気管の収縮)を引き起こす。
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生体の他の部位の組織はヒスタミンを放出する。これにより気管の収縮を起こし、結果として喘鳴、呼吸困難、胃腸症状(腹痛、嘔吐、下痢など)を示す。ヒスタミンは血管拡張(血圧低下)、血流から組織への体液の漏出(血圧低下)を引き起こす。体液が肺の肺胞に漏出すると肺水腫を引き起こす。

多尿
呼吸促拍
低血圧
脳炎
失神
意識不明
蕁麻疹
flushed appearance
血管性の浮腫
流涙
嘔吐
掻痒
下痢
腹痛
不安

2009年06月07日

体全体を覆わない構造の防弾チョッキとは違い

体全体を覆わない構造の防弾チョッキとは違い、また目的が危険物処理なので、当然ながら身体全部を覆う強力な防護構造となっている。つま先から頭部まで身体全てを覆う形で顔面部は耐熱・耐圧・耐風仕様のヘルメット型の覆いを被せ、爆音に耐えられるよう、防音壁で顔面頭部を覆ってある。さらに爆弾最前線で処理にあたる者には楯で防護し、爆発の衝撃を分散させないよう工夫がなされる。身体に受けるダメージは無着用の場合と比較して100分の1以下まで軽減され、万が一、爆発物処理に失敗し至近距離数メートルで爆発が起こったとしても命だけは助かる。

ヘルメットには無線機が標準装備され、カメラや照明などを取り付けるためのコネクタと電源装置が付いている。

日本では警察において爆発物処理にあたる者が着用する。それ以外では全くといっていいほど着用しない。 一般人には全く無縁の代物で、日本では米軍基地などの展示会にでも行かなければ見ることも出来ないほど俗世間から離れた衣類となっている。
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警察においては爆発物処理班が使用しているものが有名。実は爆弾関連の事件というのは意外に多く、処理する機会は頻繁にある。通常は爆発するおそれがあるので、液体窒素などで冷却や冷凍をして起爆装置を冬眠状態にして安全な場所に運んだ上で爆発させて処理させるので、爆破前に爆弾自体を手作業で解体することは最終手段である。しかし場合によってはその方法でしか処理不能の場合もあり、その際、万が一処理に失敗した場合を考え必ず着用した上で処理作業にあたらなければならないと規定されている。

2009年04月24日

陸の生態系は

千島列島の陸の生態系は、南の北海道やサハリン、北のカムチャツカ半島などから来た、北アジアと同様の種が構成している。種の多様さにもかかわらず、固有種は少ない。
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面積の小ささと地理的孤立により、大型陸上哺乳類はあまり生息していない。キタキツネやホッキョクギツネは1880年代に毛皮交易のため持ち込まれた外来種である。さらに、同じ頃持ち込まれたネズミ目の生物が陸上哺乳類の多くと入れ替わった。列島南北の大きな島にはヒグマ、キツネ、テンなどが元から住んでいる。また南千島の大きな島々にはシカもいる。ハヤブサ、ミソサザイ、セキレイなどの鳥も森に住んでいる。

歴史
近代国家による領有以前には、アイヌ民族などが先住していた。彼らは主に南千島(得撫島)、北部の占守島、幌筵島などに居住していた。

1700年(元禄13年) - 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。[1]

1711年 - ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。

1750年代 - ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。

1754年(宝暦4年) - 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
1766年(明和3年) - ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
1770年(明和7年) - 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
1771年(明和8年) - アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる

1786年(天明6年) - 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
1798年(寛政10年) - 幕府による北方視察が大規模に実施された
1801年(享和元年) - 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。

1855年(安政元年) - 日露和親条約が締結され、択捉島以南が日本領として画定
1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約によって樺太と北千島が交換され、全千島列島が日本領となる
日本政府は国策として、国防を理由に千島アイヌを色丹島に強制移住させた。慣れない生活と風土のため、アイヌの人口は激減する。

2009年04月06日

ホーンパイプ

ホーンパイプ(hornpipe)とは、

17世紀後半に生まれたイギリスのフォークダンス、およびそのための舞曲。いくつかの種類があり、クラシック音楽にも取り入れられた。
動物の角を組み込んだ木管楽器。
フォークダンスのホーンパイプ [編集]
フォークダンスのホーンパイプにはいくつかの種類がある。

4/4拍子 [編集]
今日、一般的に「ホーンパイプ」と言われているもので、ハード・シューズを履いて踊られることが多い。

4/4拍子のホーンパイプには2つのタイプがある。1つは『水夫のホーンパイプ』のような、均等な音符(イーブン)で、時々2/2拍子になり、スコットランドのダンスのリールと較べるとわずかに遅いもの。もう1つは『The Harvest Home』のような、付点音符ではねる感じ(バウンス)のもの。19世紀のホーンパイプの中には、この2つが混ざったものもある。

4/4拍子のホーンパイプは18世紀かそれ以前に生まれたが、ポピュラーになったのは19世紀初期のことで、その時代に多くの名曲が作られた。アイルランドでは『The Groves Hornpipe』、『The Boys of Bluehill』という曲が、イングランドでは、タインサイド(Tyneside)のフィドル奏者兼パブ経営者のジェームズ・ヒル(James Hill, 1811年頃 - 1853年)が『The High Level Bridge』、『The Beeswing』、『The Hawk』、『The Omnibus』といった曲を作った。4/4拍子のホーンパイプはアメリカ合衆国でも人気があり、『ガーフィールドのホーンパイプ(President Garfield's Hornpipe)』という曲が作られた。

しかし、もっとも知られている曲は『水夫のホーンパイプ(The Sailor's Hornpipe、またはカレッジ・ホーンパイプ College Hornpipe、ジャックス・ザ・ラッド Jack's the Lad[1])』で、その旋律は、ヘンリー・ウッドの『イギリスの海の歌によるファンタジア』、ジョン・フィリップ・スーザの『ジャック・ター』、チャールズ・アイヴズの『ニューイングランドの祝祭日』第1曲「ワシントン誕生日」、マイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』第2部の最後、キース・エマーソンのアルバム『Honky』、さらにはマルクス兄弟の映画『我輩はカモである』、『ポパイ』などに使われている。

3/2拍子 [編集]
19世紀まで、北イングランドと低地スコットランドの器楽曲の中に、陽気な3/2拍子のホーンパイプがあった。ノーサンバーランドでは今でも『Dance ti thy Daddy』や『Lads of Alnwick』といった曲が知られていて、広く演奏されている。その多くはオフ・ビート(2・3拍めにアクセント)で、普通、偶数小節で(取り損なった)ダンス・ステップの帳尻を合わせる。曲が短く、最後のところに見てわかる符号がついているものはバリエーションをつけて演奏するのに非常に適していて、それでノーサンブリアン・スモールパイプ(Northumbrian smallpipes)演奏家の中で生き残ったのであろう。とくに『Lads of Alnwick』は、わかっている限り、1730年代にウィリアム・ディクソンの写本に現れてから、大きな変化もなく、口承であるいは写本で、現在まで生き残っている。

9/4拍子または9/8拍子 [編集]
以前は3/2拍子のホーンパイプと区別する必要はないと考えられていたが、9/4拍子または9/8拍子のホーンパイプもある。ノーサンバーランドとアイルランドに残っている。初期のものはシンコペーションしている。『Mad Moll』、『The Peacock Follows the Hen』といった曲はジョン・プレイフォード出版の『ダンシング・マスター(The Dancing Master)』(遅くとも1698年の出版)に載っている。現在では普通、アイルランドの名前「スリップ・ジグ」と呼ばれている。

クラシック音楽のホーンパイプ [編集]
バロック期のイングランドの作曲家たちは、3/2拍子のホーンパイプをしばしば使った。その中でもとくに有名なものが、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル『水上の音楽』の「アラ・ホーンパイプ」と、ヘンリー・パーセルの劇付随音楽『アブデラザール』および『妖精の女王』の「ホーンパイプ」である。

楽器のホーンパイプ [編集]
楽器のホーンパイプはリードの回り、音の出る先端、またはその両方に動物の角を組み込んだ木管楽器のこと。シングルリード楽器で、口で吹く場合と、袋を使う場合がある。「pibcorn」、「pibgorn」、「piccorn」とも呼ばれる。

カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

2009年03月22日

マスキングテープ

マスキングテープ (masking tape) は、作業箇所以外を汚さないために貼る粘着テープ。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

用途 [編集]
マスキング(専門的には「養生」という)には「包み隠す」、「覆い隠す」などの意味があり、その意味の通り必要箇所以外を汚さないように隠すために用いられる。一般的にマスキングテープというと塗装に使用されるテープを指すが、他にプリント基板のめっきやエッチング、資材の識別や保護などの用途にも使用され、本来の目的ではないが装飾やラッピング、メモなどにも使われる。

種類 [編集]
マスキングテープは様々な、材質、粘着力、幅、色があり、使用用途によってそれらを使い分ける。ただ、多く使われるのは、粘着力が弱くのり残りの少ない紙素材のテープで、一般的に売られているのもこれである。

一般に水色はシーリング(コーキング)用途で、白は建物塗装用途で、黄色は溶剤と熱に強いことから自動車塗装用途で使用される。

歴史 [編集]
マスキングテープは、3Mの従業員であったリチャード・ドリューによって発明された。ドリューは、自動車塗装工たちが自動車にテープで張ったブッチャーペーパー(丈夫で安価な紙、西欧では主に肉や魚を包むためにこの名前がついた)を剥がそうとしていたとき、自動車の塗装まで剥がされているのを見た。その駄目になった部分を再度塗りなおすと、コストがかさむことを感じたドリューは、粘着力の低い接着力のテープの必要性を痛感し、研究を始めた。試行錯誤をかさね、1925年にドリューはマスキングテープを世に送り出した。

2009年03月07日

チャールストン (防護巡洋艦)

チャールストン (USS Charleston, C-2) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。艦名はサウスカロライナ州チャールストンに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
チャールストンはアメリカ海軍初の防護巡洋艦であったが、鋼製巡洋艦建造の経験不足から設計はイギリスのアームストロング・ミッチェル社で行われた。1887年1月20日にカリフォルニア州サンフランシスコのユニオン鉄工所で起工し、1888年7月19日にA・S・スミス夫人によって命名、進水、1889年12月26日に艦長ジョージ・C・レメイ大佐の指揮下就役した。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

1890年4月10日にメア・アイランド海軍工廠を出航したチャールストンは太平洋戦隊に旗艦として合流し、東太平洋を巡航した。チャールストンは1891年1月20日に死去したハワイ王のカラカウア一世の遺体を乗せ、サンフランシスコからホノルルまで送り届けた後、5月8日から6月4日まで、チリ内戦時にサンディエゴから逃走したチリの汽船イタタ (Itata) の捜索に参加した。8月19日から12月31日までチャールストンは極東でアジア戦隊の旗艦として巡航し、1892年には再び大西洋戦隊に加わり10月7日まで活動、その後東海岸へ向けて出航し多くの南アメリカの港を訪問した。

チャールストンは1893年2月23日にハンプトン・ローズに到着し、ここから僚艦および他国の艦と共に巡航、4月26日にシカゴ万国博覧会の一部として行われた国際観閲式に参加した。砲艦ドルフィン (USS Dolphin, PG-24) に乗ったクリーブランド大統領が観閲を行った。同年の夏には、ブラジル革命に際してアメリカ合衆国の権益を保護するための部隊に合流し南アメリカの沖合を巡航した。モンテビデオ、ウルグアイでの巡航の後、1894年7月8日にサンフランシスコに到着、アジアステーションに展開するための準備に入る。チャールストンは6月6日まで極東を巡航、横浜を出航しサンフランシスコに到着、1896年7月27日に予備役となる。

米西戦争が勃発するとチャールストンは直ちに現役復帰の準備を行い、1898年5月5日に再就役した。16日後にホノルルに向けて出航、陸軍部隊を輸送する3隻のチャーター船と合流した。チャールストンはグアムに派遣され、6月20日の夜明けに小船団はグアムの北端に到着した。チャールストンはアガナで湾を調査し、アプラ港へ移動した。安全に停泊した輸送船から分離したチャールストンは湾に入港、フォート・サンタクルーズに砲撃を開始した。直ちにスペイン軍の使いが返礼の礼砲を砲撃するための火薬を持ち合わせていなかったことを謝罪するために訪れた。彼らはアメリカとスペインが戦争状態にあることを知らず、米艦が島を占領するためにやってきたことを知り驚いた。翌日島の守備隊はチャールストンからの上陸部隊に対して降伏し、スペインの知事と守備隊員は捕虜として1隻の輸送艦に乗せられた。その後チャールストンはマニラ湾でデューイ提督の艦隊に合流した。

チャールストンは1898年6月30日にマニラに到着し、湾の封鎖強化に加わった。8月13日には最後の艦砲射撃に参加し、マニラ市は降伏した。チャールストンはフィリピンに1898年から99年まで留まり、陸軍部隊の進撃に対する支援砲撃を行い、1899年9月にはスービック湾占領を行う海軍遠征部隊に参加した。1899年11月2日にルソン島北方のカミギン島近くの海図にない暗礁で座礁し、船体は大きく破壊されたため、乗組員は艦を放棄、近くの島に上陸した後カミギン島へ移動した。乗組員は11月12日に到着した砲艦ヘレナ (USS Helena, PG-9) によって救助された。

2009年02月18日

アリストテレス

アリストテレスまたはアリストテレース(古代ギリシア語: Αριστοτέλης、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。中世スコラ学に影響を与えた。プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンと共に、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とみなされるほか、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。またアレクサンドロス大王の家庭教師であったことでも知られている。

英語風に発音したアリストートル (Aristotle) も日本で時折使用される。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

アリストテレスは前384年、マケドニア王の侍医の息子としてマケドニアのスタゲイラに生まれた。 17歳のとき、アテナイにあるプラトンが主催する学園アカデメイアに入門し、そこで20年間学生として学び、その後アカデメイアの教師として後進の指導にあたった。そして前347年にプラトンが死ぬまでアカデメイアに留まった。

前347年、マケドニア王フィリッポスの招聘により、王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師となった。アリストテレスは弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。

前335年、王子が即位すると、アテナイに戻り、自らの学園リュケイオンを開いた。弟子たちとは学園の歩廊(ペリバドス)を逍遥しながら議論を交わしたため、彼の学派は逍遥学派(ペリバドス学派)と呼ばれた。

アレクサンドロス大王の死後、アテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、前323年母方の故郷であるカルキスに身を寄せた。そこで病に倒れ、前322年に死亡した。

アリストテレスの業績
アリストテレスによる書き物は元々は550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのはおよそ3分の1である。ほとんどが講義のためのノートあるいは自分用にしたためた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体である。様々な経緯を経て、ロードス島のアンドロニコスの手に渡り、紀元前30年ころに整理編集された。それが現在『アリストテレス全集』と呼ばれているものである。したがって、我々に残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっていることが多々ありうる。

キケロ等の証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話編を書いたようであるがそれらは全て残存していない。

文学
アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を用いての模倣であり、理想像の模倣が悲劇的成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は彼の『詩学』にその根拠を求めている。

論理学
アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく弁証論を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として、三段論法などの形で体系化された。

アリストテレスの死後、彼の論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。

自然科学
アリストテレスによる自然科学に関する論述は天文学、気象学、動物学、植物学など多岐にわたる。

プラトンはイデアこそが真の実在(実在形相説)であるとしたが、アリストテレスは感覚で捉えることができ、形相が質料と不可分に結びついた個物が基本的な実在(個物形相説)であるとした。さまざまな物体の特性を決定づけているのは「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素を想定している。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実、感覚に根ざしたものとなっている。

アリストテレスの宇宙論は、同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星などが、それぞれ各層を構成している。これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール(エーテル)」からなる。そして、「アイテール」からなる故に、これらの天体は天球上を永遠に円運動をしているとした。さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。

イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者やトマス・アクィナスら中世のキリスト教神学者は、この「第一動者」こそが「神」であるとした。

生物はすべて、希: ψυχη(プシューケー 和訳では霊魂とする)をもち、これによって無生物と区別されるとした。このときの、希: ψυχηは、生物の形相であり(『ペリ・プシューケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシューケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつものを動物、もたないものを植物と2分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物を示唆している)。

さらに、人間は理性(作用する理性(ヌース・ポイエーティコン)、受動理性(ヌース・パテーティコン))をもつことで他の動物とは区別される、としている。

原因について
アリストテレスは、師のプラトンのイデア論を引き継ぎながらも、イデアが個物から離れて実在すると考えたことを批判し、師のイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえた。

アリストテレスは、世界に生起する現象には「質料因」と「形相因」があるとして、これを分け、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』Α巻『自然学』第2巻第3章等)。

物事が何でできているかが「質料 (hyle) 因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相 (eidos) 因」、運動や変化を引き起こす始源 (arche) は「動力 (kneseos) 因」、そしてそれが目指している終局 (telos) が「目的 (hou heneka) 因」である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが可能態であり、それとすでに生成した現実態とを区別した。

すべてのものが可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは「神」(不動の動者)と呼ばれる。

範疇論
アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって種や類をあらわし述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。

倫理学
フランチェスコ・アイエツ画アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。

また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸にあたるのは、恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知。ただし羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。

また各々にふさわしい分け前を与える配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。

アリストテレスの倫理学はダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を引いており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なおニコマコスとはアリストテレスの父の名前であり、子の名前でもある。

政治学
アリストテレスは政治学を倫理学の延長線上に考えた。彼は「人間は政治的動物である」と定義する。自足して共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。これらとは異なって人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつといわれる(ニコマコス倫理学)。

アリストテレス自身はひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、時代はすでにアレクサンドロス大王が登場しポリスを超えた世界国家の形成へと向っていた。

後世への影響力
アリストテレスは後世「万学の祖」と称されるように、彼のもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く偉大なものであった。彼の多岐にわたる学説は、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。

例えば、現代の物理学、生物学にかかわる説では、デモクリトスの「原子論」「脳が知的活動の中心」説に対する、アリストテレスの「4元素論」「脳は血液を冷やす機関」説なども信奉されつづけることになり、長らくこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。

さらに、ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)をめぐって生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は望遠鏡を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」とみなし覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシャにおいて大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。

ただ、その後の諸学問の発展におけるアリストテレスの貢献も忘れてはならない。たとえばエドムント・フッサールの師であった哲学者フランツ・ブレンターノは志向性という概念は自分の発見ではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している

2009年01月28日

第二次木津川口の戦い

第二次木津川口の戦い(だいにじきづがわぐちのたたかい)は、天正6年11月6日(1578年12月4日)に毛利家と織田家との間に起こった海戦である。

第二次木津川口の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1578年12月4日
場所:木津川口
結果:織田水軍の勝利
交戦勢力
毛利水軍
村上水軍 織田水軍
指揮官
村上武吉 九鬼嘉隆
戦力
600隻 鉄甲船6隻
損害
壊滅 ー
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

1576年の第一次木津川口の戦いで毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したため、織田信長が九鬼嘉隆に命じ、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。そのサイズは縦12メートル・横22メートルあったとされ、空前絶後の巨大さと防御力を持っていた。

九鬼嘉隆指揮の織田水軍は、石山本願寺支援のため大坂湾に入った毛利水軍と木津川口で海戦となり、織田軍の6隻の鉄甲船に搭載された大筒・大鉄砲の火力の前に毛利水軍・村上水軍600隻は惨敗した。実際には能島・因島村上水軍は本合戦に間に合わず、乃美・児玉水軍が功に焦って大敗したと思われる。

結果
以上のことが通説とされるが、翌年には毛利水軍は籠城中の三木城への兵糧搬入作戦も大々的に行っており、最近の研究では通説で言われるほどの大敗であったかは疑問とされる。この戦いの結果、大坂湾の制海権は織田方のものとなったが、依然淡路島西部の制海権は毛利水軍が握っており、淡路島以西に織田氏の勢力が及んだのは1582年に3月に来島通総が離反した一時期だけであった。

しかしこの海戦の結果、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、石山本願寺の士気も低下した。この戦いから2年の後に顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。

信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は天正5年(1577年)10月5日?10月10日、織田信長に対して松永久秀が謀反をおこし、信貴山城で行われた攻城戦。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。

開戦までの経緯

石山本願寺の復興模型松永久秀は三好長慶の没後、三好義継を擁立し、三好三人衆と三好氏の実権を巡って争ったが、織田信長が上洛するとこれに臣従し、畿内における三人衆との抗争を優位に進め、自身は大和国の支配を引き続き任されていた。ところが、将軍足利義昭が信長と対立し、諸侯に信長討伐を働きかけると(信長包囲網)義継と共にこれに呼応し、摂津国や河内国で猛威を振るった。結局この動きは信長に抑えられ、義継は自刃に追い込まれ、久秀は許されたものの、大和の支配権を信長の腹心である塙直政に奪われてしまう。

その直政は天正4年(1576年)5月3日、石山本願寺攻めで指揮をとるも大敗し討ち取られてしまった。大和国に信貴山城がある松永久秀にとって次の守護が誰に決まるのか気になっていたが、織田信長は松永久秀の宿敵筒井順慶を守護にすえた。以前の信貴山城の戦いや東大寺大仏殿の戦いでは三好三人衆と共々対戦した相手である。織田信長が上洛後、松永久秀と筒井順慶は同格であったが、守護となったことで立場が変化した。織田信長としてみれば、松永久秀は和睦したとはいえ一度裏切っており筒井順慶の守護は当然のことであったが、久秀にとっては当然不服ある措置であり、直後の謀反の大きな原因と考えられている。また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点であった多聞山城を破却するなど、松永氏の勢力の削減を匂わせる行動に出たことも、久秀の政治的な危機感をますます強め、謀反へ向かわせる一因となったと思われる。

翌天正5年(1577年)8月17日石山本願寺攻めで詰めていた天王寺砦を焼き払い、松永久通を引き連れ信貴山城に立て篭もった。この時『和州諸将軍伝』には「騎馬三百余其勢八千余人」とかなりの軍勢だったと思われている。「城名人」、「近世式城郭建築の租」と呼ばれている松永久秀は、翌日より信貴山城の補強工事を開始している。

松永久秀は二つの目算があったと思われている。一つは石山本願寺に立て篭もる顕如、一つは上洛を目指す上杉謙信である。

顕如画像
上杉謙信像
松永久秀像

顕如軍は先の合戦で織田信長軍の守護を討ち取り、第一次木津川口の戦いで武器、食糧も補給し軍事力はいまだ強大、上杉謙信軍は2万の大軍を率いて上洛を目指し、顕如の命により加賀一向一揆衆はゲリラ戦法で柴田勝家軍の行く手を妨害し、上杉謙信軍を側面から援助している。松永久秀単独で織田信長軍を倒すことは難しいが、三者はなんらかの密約、繋がりがあった可能性を『戦国合戦大事典』は指摘している。

片岡城が築城していた城山
織田信忠画像織田信長はこの時安土城におり謀反に驚いたのか、老功である松永久秀を惜しんだのか、堺の代官松井友閑を使者にたて信貴山城へ向かわせた。この時の様子は『織田軍記』によると、

何ようの仔細か、存分申上げ候へ、委細聞届けせれ、御裁許あるべきの由と記載されている。

一度ならず二度まで裏切った松永久秀に対して、異例の処置であったが松永久秀は織田信長の誠意ある説得にも拒絶した。

これに憤慨した織田信長は同年9月後半ごろより筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させ、法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍とした。同年10月1日が織田軍は信貴山城の支城となっていた片岡城を約5千兵で攻城、これに対して松永久秀軍は海老名友清、森正友らが率いる約1千兵で防御した。この時の戦いの状況を『多聞院日記』では、

片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了

と記載されており、筒井順慶隊にもかなりに戦死者が出たようだが、松永久秀軍の有力武将、海老名友清、森正友などが討死、片岡城も落城してしまう。

この時織田信長に朗報が届く。同年9月23日手取川の戦いで大勝利した上杉謙信であったが七尾城から動こうとせず進軍が止まった、との報告が同年10月3日に柴田勝家から直接安土城に入った。上杉謙信がなぜ進軍を止めたのか諸説あるが、豪雪を恐れたのではないか、北条氏政が関東へ出軍し本国防衛のため等が言われている。織田信長は上杉謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝など加賀国に出陣していた部隊を、信貴山城攻城の援軍として送り込んだ。この時の織田信長軍の総数は4万兵と言われている。一方、前回は武田信玄の死亡によって謀反は成功せず、今回も上杉謙信が動かなかったことにより、はしごを外れた格好になった松永久秀は片岡城が落城した事と伴って窮地におちいる事になる。

翌10月4日、どちらが放った火なのかはよく解らないが、多聞日記によると「信貴山ヒサ門堂燃え云々」と記載されており、現在の朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちた。

戦いの状況
戦いは翌10月5日から開始された。4万もの大軍が一斉に攻城を開始したが、城名人が築城した信貴山城は簡単には落城しなかった。この日の戦いを『和州諸将軍伝』では、松永久秀の武将、飯田源基次が率いる200余人が斬り出て、織田軍数百人が手負い、または討たれた、とあるので松永久秀軍の抵抗も必死であったと考えられる。戦いは持久戦の様相を呈してきた。織田信長はこの日、松永久秀の質子(松永金吾の息子、当時12歳と13歳)を洛中引き回しの上、六条河原で斬首した。

火縄銃
松永久秀画像/最後の切腹場面10月5日の戦いでは勝利した松永久秀軍ではあったが、織田信長軍との兵力差は圧倒的であったため、もう一つの密約の相手である顕如に至急援軍を要請することにし、その使者に森好久という人物を選んだ。森好久は、10月7日信貴山城を出立、翌10月8日石山本願寺から加賀国鉄砲衆200名を引き連れて帰城し三の丸付近に配置した。森好久の報告によると、三日両日に毛利軍から更なる援軍が到着し、そのようになれば石山本願寺からも更なる援軍を差し向ける事が出来る、と顕如が申していたといい、松永久秀は喜んだという。

しかしこの鉄砲衆200名が信貴山城落城のきっかけとなる。森好久は筒井順慶の元譜代で、筒井順慶の居城筒井城が落城すると牢人となっていたが、その後松永久秀に仕官し、その才覚から落城直前にはかなりの信頼を得ていたと思われている。しかし、森好久は信貴山城を出立すると、そのまま筒井順慶の将松倉重信の陣所に駆け込み、信貴山城の内情を知らせた。大いに喜んだ筒井順慶は森好久に金子三十両を与え、虎の子の鉄砲衆200名を預け伏兵とするように命じた、と『和州諸将軍伝』には記載されている。

その後『多聞院日記』によると、

“ 夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了

とあるので、翌10月9日の午後6時前後よりすでに戦闘は開始されていたと思われる。しかし、再び総がかりの攻城は翌10月10日明朝からで、織田信忠の許可を得て筒井順慶は前線に立ち、鬨の声を上げ攻め上がった。これに対し松永久秀軍は、弓、鉄砲で抵抗し門からも討ってでたりし筒井順慶隊は一度は押し返された。

そんな中、天守に近い三の丸付近から一斉に火の手が上がった。森好久が率いる鉄砲衆200名が反乱を起こしたのである。堅城を誇る信貴山城ではあるが内からの攻撃には弱い。一挙に浮足立ち、織田軍に死に物狂いで向う者、力尽き自害する者、落ち延びていく者、もはや軍としての統率力は無くなったようである。

松永久秀、松永久通親子は自害して果てた。松永久秀は68歳、松永久通は35歳であった。また安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の四層の天守櫓は、この時に炎上したと思われる。

戦後の影響
翌10月11日は火の手がくすぶる中、雨が降ってきたようで、『多聞院日記』によると東大寺大仏殿の戦いも10月10日、翌日も雨が降っていた、と記載されている。

手取川の戦いでは大敗をした織田信長軍であったが、信貴山城の戦いの勝利で士気を高めたと思われている。この後、羽柴秀吉は中国征討へ、明智光秀、細川藤孝は第二次丹波国征討に乗り出すことになる。

一部の歴史小説やドラマでは、松永久秀が平蜘蛛茶釜を粉々に割って、天守と共に爆死したという説が提示されているが、『探訪日本の城』では平蜘蛛茶釜は懇意していた柳生宗厳(柳生新陰流の継承者)にすでに渡っていたという説を紹介していたり、『多聞院日記』では、

“ 昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了

達磨寺にある松永久秀の墓と記載されており、切腹した松永親子の首が安土城に送られている。これらよりただちに「爆死説はなかった」とは言えないが、松永久秀の希有な人生から想像され諸説ある。また『大和志科』によると胴部分は達磨寺に葬られ、丁重に埋葬したのは宿敵であった筒井順慶と記載されている。

この戦いは筒井順慶の活躍が目ざましかった。地元という事もあるが、筒井順慶は着陣以後何度か家臣達と戦評定を行っている。これは織田信長より守護を拝命し武人として先陣の名誉を承った以上、無為の日々を送っていては、不忠、臆したことになり、なんとしても城を攻め落とす必要があったのではないかと『戦国合戦大事典』は解説している。

また『武功夜話』では竹中重治が松永久秀の事を評している。それによると、「松永久秀は老練の采配で佐久間信盛(塙直政が戦死後の石山本願寺攻めの総大将)などは松永久秀が反覆定まらぬところがあり、心を置いていない。いずれ惑いを生じてついに逆心を抱くに違いない」としている。武功夜話がどこまで史実を伝えているか不明だが、信長の家臣団からも不信の目で見られ、また本願寺攻めの総大将からも信頼されていなかった様子を伺い知る事ができ、これらを敏感に察した松永久秀は反乱に及んだ一つとも考えられ、後の織田信長の説得にも応じなかったのではないかと思われている。

2009年01月20日

科学的という言葉に関する2つの極端な立場

科学的という言葉に関する2つの極端な立場がある[7]。ひとつは、「科学的に証明された」「正しい理論」という文言と、それらしい実験を示しただけで、盲目的に信仰するという立場である。もうひとつは、すべては「単なる理論」であるという事を極端に強調し、全く信頼しないという立場である。これらは2つとも科学的という言葉に対する初歩的な誤解である[7]。

「科学的に証明された」、「正し理論」という言葉が、何を意味するのかは、非常に幅の広い意味を持つ言葉で一般には難しい[7]。このような問題を考慮する場合には、「研究目的にたちかえって考えること」や、「測定とはどのようなことなのか」、「科学的な論証で用いられる論法」等、「科学的な方法」に求められる諸要件について理解しておく必要がある[7]。

特に、科学的な態度においては、特に論文などのように、自らの得た知見を世に問う場面においては、明確な研究目的の提示を行うこと、そして「研究目的で提示した問題の解」において明快な論理と確かな証拠を以て立証する義務が生じる(詳細はIMRAD参照)。これは、数学の証明問題において「示すべき命題が何なのかを意識せよ」と言われるのと同じことである。例えば「鶏肉からDNAを抽出する」という研究目的を立てた場合には少なくとも「抽出されたものがDNAであることをきちんと立証する」必要がある。つまり、この研究目的に照らして例えば「洗剤に鶏肉を入れたら、白い沈殿ができた」という結果が得られたとしよう。この場合この結果と「その白い沈殿がDNAである」という結論の間を最も真剣に考察する必要が生じる(循環論法の項を参照のこと)。

本来科学的なもののみかたを広めるはずの、啓蒙活動が、かえって「科学的」という言葉に対する誤解を広める原因となることもある。古くから、健康番組や科学番組などにおいて演示実験がおこなわれる。また、科学啓蒙家による演示実験による啓蒙活動がよく行われる。また”インパクト抜群のオモシロ実験”を自宅で簡単にできるようにコンパクトにまとめた本が多数売り出され好評を博している。これらの中には、しっかりとした調査の上に科学的な論理を以って物事の成り立ちを示す大変質の高いものがある一方で、実験データの検証と解釈などの点で科学研究の基礎的な要件をあまりにも無視したものが多数見受けられる[31]。実際、金澤一郎日本学術会議会長は昨今の健康番組や科学番組における”科学的な論証”に対し、

適切な対照群の設定
統計的な有意差を得るために必要な実験例数の設定
実験データの検証と解釈
などの点で科学研究の基礎的な要件を必ずしも満たしていないものが見受けられることを指摘している[31]。ここで指摘されている要件を満たしていない議論は、解釈の提示等において、科学的な推論の規範とは到底言えず、科学的な推論方法を身につけさせる上では有害と思われるものも多数見受けられる。このような、粗雑な議論も、「科学的」なものを扱っているというだけで、科学的だと誤解されることがある。わかりやすさを前面にだすためには、ある程度は枝葉末節を切り捨てることが重要ではあるが、科学的な論証の上で必要な手続きを無視した議論は、結論の成否に関わらず、科学的な態度とは対極にある態度である

一方で、科学的という概念を無駄に潔癖な方法と誤解している者もいる[4]。現実の科学者に対して、無駄に潔癖な考え方を押しつけただの誤解やミスあるいは(マスメディアに見られる”科学的推論”に比べればはるかにギャップの少ない)「多少は強引な結論」等、科学の進展の上では必然的に生じてくるような特段騒ぐほどでないものを誇張して科学における不正行為と騒ぎ立てるものがある[4]。こういった問題は最近においては「芸能人の不倫騒動」と同列に大衆の興味を掻き立てるものである[4]。 科学者においては誠意をもった推論が必要なことは言うまでもないが、最近においてはこのような”ゴシップ騒動”の影響で、特に若い世代に萎縮効果が出るなどの弊害がある点には注意が必要で、健全な科学の進展には弊害がある[4]。

科学的方法の歴史と哲学

科学的な方法とは何かという問題について、これまでは科学者の側あるいはそれに近い側からの議論を中心に述べてきたが、この問題は科学哲学の重要な問題の一つでもある[32]。 一方で哲学と自然科学が分業して以降は科学哲学の側がどうしても観念的になり、現実の科学を正確に理解しないまま「相対論を相対主義にこじつける」ような愚が野放図に行われる有様であった[23]。 また、古典的な科学哲学者の見解には科学の進展の美化された部分を高度に抽象化させすぎるきらいがあることが指摘されている。結果として道徳の次元としては美談だが、現実の科学の進展に寄与したい人間にとっては逆に変な誤解や萎縮効果を与えてしまう危険性のある理屈がまかり通り、神話を作るだけで結果として科学者の側にとってはどうでもよい問題を延々と議論しているという指摘がしばしなされる[23][33]。

不幸なことにこのような古典的な科学哲学の問題点は「いまでもそのまま」だと誤解されているようであるが、これはとんでもない間違いである。現在の科学史、科学哲学においては既に実験ノートの記録などから科学的に研究者に迫るアプローチが主流であり、従来の観念的な科学論は科学哲学の中でも重要性を失っている。
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観念的な大昔の科学史、科学哲学によって形成された神話的な科学者像は正確には実用性に欠く見当違いな「科学的方法」観を与える。先述のように、科学的な方法においては、最終的にはデータに文脈性を持たせることが重要になるが、データに文脈性を持たせる能力について「単なる弁明の能力でしかなく、科学を進める原動力にはならない」と言う人もいる[34]。そして、「口がうまい者が一流とみなされる」と嘆いて見せる[34]。しかし最近の科学史の研究においては、「パスツール」だとか「ファラデー」とかいった比較的神格化されている人たちも含め、どちらかというと「口がうまい」と嘆かれる研究者に近くそういう特質をもっていたからこそ科学を進歩させられたのだとみる見方が主流となっている。

このようなパラダイムシフト、この場合には神話的な科学像からの脱却の端緒は諸説あるが例えばアメリカの社会学者ハロルド・ガーフィンケルらを中心とするグループの実際のラボラトリーに観察者として入り込み、「エスノメソドロジー」と呼ばれる文化人類学的な調査方法によって科学活動を調査・記述・分析した一連の研究にそれを見ることができる[34]。ガーフィンケルらの研究には「手の麻痺した化学科の学生の実験を手助けをしながら,自ら実験を追体験する」などといった密着取材に基づく生々しいものがたくさんある。 このような地道な調査によって、徐々に「マニュアルには処方されていない様々なテクニックが実験作業に必要とされていること」等が明らかにされた。この考え方、手法は科学哲学者ブルーノ・ラトゥールによって大成され、一つの標準的な理論に達した。 この考え方は現代における「科学的方法像」に近いものである。